その時々

その時々で違うんです。特に決まっていないんです。

掃除をする

人間は汚いものです。汚物をそこら中から出します。
ですので人間が生活するということは周りも汚れていくことになるんですね。

そこで掃除が必要になるんです。
この掃除というものは結構面倒ものです。
それもそのはずです。
最初に書きましたように人間がいる限り、掃除しても掃除しても汚れるのですから・・・

それでも掃除をしなければゴミだらけになっていきます。
でも面倒だ。
だれか変わりにしてくれないか。
というようにどんどん悪い心が出てくるのです。

掃除というものは、この悪い心をきれいにする行為(修行)なんじゃないかと思うんです。
ですので、掃除をするときはきれいな心でしないと意味がないんです。
悪い心を出しながらやるのなら結局汚れちゃうんですから。

その悪い心とは怠惰だったり、怒りだったり、潔癖症もその一つだと思います。
汚い汚いと思いながら嫌々やったり、ピカピカにならない(少しでも汚れている)と気がすまないというような心です。

こんなお話があります。

仏陀の時代の話ですが、ある比丘がRevata大阿羅漢の庵に住み、朝も昼も夕方も夜も、いつも箒を手放すことなく掃除に専念していました。この比丘は正直者で、「とにかく朝から晩まで何かをしていれば修行になるのではないか」と思っていたのです。「信者さんの御布施を戴いて何もしないでいることは、出家者としてふさわしくない生き方だ」と思っていたのです。仕事といっても出家者には他にやることがないのだから、掃除ばかりしていたのです。彼は、作務を熱心にすることで立派な修行者になれるのではないかと思っていたのです。その彼が、ある日の午後、掃除が殊のほか忙しかったのか、坐ってサマーディに入っていたRevata長老に向かって、「怠けるな」と言ってしまったのです。それに対して長老は、「掃除は一日一回で充分です。ホンモノの仏道はこころの掃除なのです」と彼を諭しました。その比丘は、その言葉を聞いて深く反省し、それからよく修行に励みました。掃除が一日一回になったものですから、庵の周辺は以前ほどきれいではなくなり、他の比丘たちが掃除を怠けているのではないかと彼に糺しました。彼は、「昔怠けていたときには、一日中よく掃除をしたものです。いまはこころから怠けが消えたので、掃除のことはそれほど気にしません」と言いました。比丘達はそれを聞いて、「彼は自分が悟っていると言っている」と、お釈迦さまに報告しました。お釈迦さまは、その比丘が悟ったことを認められたということです。

参考:「ホンモノ」と「ニセモノ」 〜中身を磨くか、うわべを飾るか〜