その時々

その時々で違うんです。特に決まっていないんです。

希望のしくみ

希望のしくみを読んでいで、はっとしました。

この部分です。


−では「苦しみ」とは何ですか?

「現実をありのままに受け入れないこと」です。だから、現実を受け入れたら「苦しみ」はないですよ。

それなのに皆さん、「現実をありのままに受け入れるのが苦しいんだ」と勘違いしている。

それで現実から目をそらして、「幸福」という観念が生まれるんです。
たとえば、「部屋が汚れているという現実」を受け入れたくないとします。
それで「ああ、きれいな部屋が欲しいなぁ。きれいな部屋に住めたら、きっと幸せなんだろうなぁ」とか思うんですね。
 つまり、部屋のいまの状態を受け入れたくないと思った気持ちが、「苦」です。
それに「期待・希望」を入れて、「きれいな部屋に住みたい」と、経験もしていない状態を妄想するんです。
「部屋」を「自分自身」に入れ替えてみてください。いまの自分の生き方に納得していない状態が、「部屋が汚れている」です。それで別な生き方があるのではないかと思い、希望と期待をたして、幸福を夢想するんです。

−それの、どこが問題なんですか?

「期待・希望」が加わると、事実でなくなってしまうんです。その証拠に「では、きれいな部屋って何なのか、あなた知ってますか?」と聞かれても、まともな返事ができないでしょう。汚れていると思った部屋でも、別な部屋と比較すると、マシではないかと思ってしまうこともある。きれいな部屋だと思っていたのに、他と比較したら汚かった、ということもあるでしょう。

 自分の人生を他人と比べると、また同じ結果になります。幸福も不幸も、すべて相対的で、あてにならない観念でしょう。幸福と思ってもその状態に期待・希望を足してみると、不幸という結果になる。不幸という状態に期待・希望を足すと、さらに不幸、という結果になる。ですから、期待・希望(仏教用語渇愛)が問題です。

老いることは苦ですか?苦でも楽でもなく、事実でしょうに。避けられない、逃げられない、受け入れなくてはならない。

そういうものです。それなのに、老いることはない、老いたくないと、事実に反してあべこべに思考する人には、老いることは苦になるのは当然なんです。老いるという事実をありのままに認めて、期待・希望という苦を作る原因から自由になっている人にとっては、老いることは苦でもない、楽でもない。心は平安なんです。

宝島社「希望のしくみ」より引用

ああ、いろんな苦しみとかは自分が作り出してるんだな。

相手が悪いと思っていたことも結局は自分の渇愛が原因で、そう思えていたんだなと。

なんだか、このことに気づいてからはだいぶ心が軽くなった気分になりました。


希望のしくみ

      

希望のしくみ


著者:養老 孟司,アルボムッレ・スマナサーラ



希望のしくみ